☆ ゲンジツおじさんの現実 ☆

火浦功先生の名作「ゲンジツおじさん」(カドカワ文庫「たたかう天気予報」に収録)のパロディです。 


1.
男は、玄関を見上げ、「鈴木」という表札を見上げた。そして、自分の左の手の甲に書かれたマジックの「鈴木太郎」という姓と合致することを確認すると、満足そうにうなずき、扉を開けた。
「ただいま」
「あなた、お帰りなさい」
髪をひっつめ、あらわにした額に「妻」と書かれた女が出迎える。「会社カバン」と書かれた会社鞄を手渡し、「靴」と書かれた靴を脱ぐと、「靴下」と書かれた靴下を穿いた足が現れた。
廊下には、赤いランドセルが放り出してあった。
「『すずきえりか』が出しっぱなしだな。エリカは宿題もやってないんだろう」
「あなた、これは、ランドセルよ。『すずきえりか』は、娘のフルネームでしょ」
「だが、これ…」
太郎は、ランドセルの脇腹を指差す。そこには、名前を書いた紙を入れるスペースがあり、紙には『3ねん2くみ すずきえりか』と書いてあった。
「学校の持ち物には、自分の名前を書かないといけないの。気になるのなら、目立たない所に、『ランドセル』と書いておいてください」
「わかった」
太郎は、常時携帯している油性マジックを背広の胸ポケットから取り出し、おもむろに、ランドセルの覆いを開けて裏側に『ランドセル』と書いた。
「なんだ、これは…」
ランドセルの中味は、教科書や筆箱ではなく、ぶ厚い少女マンガ雑誌と子供お化粧セットと携帯ゲーム機だった。
「勉強道具を入れる鞄のことを『ランドセル』と言うのだがなあ…」
太郎は不満そうに眉をしかめながら、書いた跡をふーふーと吹いた。

居間では、夕食を終えたエリカが、テレビゲームに興じていた。額には、『むすめ』と書いてある。
妻はテーブルにおかずを並べ、冷蔵庫を覗くと「あら、ビールが切れてる」と言った。
「ごめんなさい。今、買いに行って来ますね」
「そのオデコの『つま』は、ちゃんと『鈴木江利子』に書き直して行くように。近所の人が、おまえを自分の『妻』だと勘違いすると困る」
「はい、わかりました、あなた」
妻は、クレンジングクリームをすっぴんの額に塗り付け字を落とすと、『鈴木江利子』書き直してから出かけて行った。

ある夏の朝、太郎は体調がすぐれず、会社を午前中に早退した。
なんだろう、なんの病気だろうと不安を抱えて、地元の医者に行った。
「夏風邪ですね」と、その症状に名前をつけてもらうと、気持ちがすっきり落ち着いた。薬をもらい、帰宅する途中、駅前の連れ込みから、カップルが出てきた。太郎とぶつかりそうになり、女がハンドバッグを落としたので、拾ってあげた。
女は「ありがとうございます」と礼を言い、連れの男と肩を抱き合うようにして足早に立ち去った。
「おい、やばいぞ、あれ、君のダンナだろ?」
「大丈夫、額に『鈴木江利子』って書いてないから、あの人には私だってわからないわ。今だって、全然気づかなかったでしょう?」
おろした髪のウエーブが、風になびいた。

2.
太郎の妻が、娘を連れて出て行った。いや、離婚届に印を押したのだから、もう「妻」ではない。
娘のエリカとは、一ヶ月に一度は会っていいという約束だった。
エリカと小学校の校門で待ち合わせをしたが、彼女は来なかった。約束の場所で、胸に『なかむら えりか』という名札をつけた見知らぬ子供に「おとうさん!」と話しかけられたが、太郎はその女の子に見覚えがなかった。結局、エリカとは会えずに、そのまま家に帰った。
半年ほどすると、『中村 江利子』という女から手紙が届いた。
「来月、再婚します。私もエリカも『豊田』という姓に変わります。街ですれ違ったら、挨拶くらいはしてくださると嬉しいです。せめて娘には声をかけてあげて」という内容だった。中村江利子もそうだが、豊田江利子も、豊田エリカも、太郎の知らない人間だ。太郎には関係なかった。
「知らない人間なのだから、街ですれ違っても、わかるわけがないのになあ」
太郎は、その手紙に「手紙」と書き、「書簡入れ」と書かれた箱にしまった。

正月は、久しぶりに実家に帰ることにした。今までは、家族連れなので気楽に帰れなかったのだ。子供が産まれた時に一度帰って、だから7、8年ぶりくらいだろう。
何時間も電車に乗り、一日二本しかないバスに乗り込み、懐かしいバス停で降りた。バス停前の雑貨屋も変わらずそこにあった。
「あややあ、なつかしい人が降りて来おったわ」
雑貨屋のおばちゃんが、太郎の背中をぽんぽん叩いた。
奥からおっちゃんの声もした。「誰が来たって〜?」
「ほんら、川向こうのスズモトんちのタロさんだよ」
『スズモト…?』
鈴本…?
太郎は、こわごわと、左の手の甲の文字を見た。
「鈴木太郎」。
「鈴木」の「木」を近くで見ると、微かに、水平の棒が見えた。いつのまにか、消えてしまっていたようだ。いつから消えていたのだろう。汗で消えたのか、服などで擦れて消えてしまったのか。
『私は、誰だろう…』
太郎は、バス停に立ちつくした。名も知らぬ鳥の鳴き声が、山並みにこだまして、いつまでも響いていた。

                                         <おしまい>


すみません、こんな話で〜。
モトになった火浦さんの話は、「よく考えるとコワイ話だけど、救いのあるオチがある」という、素敵な話です。

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