『太宰に注意』
信じられないことだが、その看板には、たしかにそう書いてあった。
「太宰に注意・・・」
俺は、間抜けな声で、茫然と呟いた。
ひなびた住宅街を、さらにはずれた、玉川上水沿いの散歩道。
役所が植えましたという感じの桜の街路樹が並ぶ、ありふれた石畳の道である。
ただひとつ、道の途中に立てられたその看板を除けば。
「どうかしましたか?」
声に振り返って見ると、空から伸びている蜘蛛の糸にぶら下がった芥川龍之介が、こちらをするどい眼光で見つめていた。
「いや、この看板なんですけど・・・」
「はい」
芥川の眼光がまた少し厳しくなった。
「万一の場合はですね、ほら、ここに」
芥川は、看板の近くの植え込みの陰に置いてある、赤い箱を指さしながら、
「これが非常時の設備ですので、遠慮なく使って下さい。使い方は、箱の表に書いてありますから」
・・・万一の場合って、どんな場合なんだ!
俺は叫び出しそうになるのをこらえながら、その『非常時の設備』とやらに、視線を移した。
頑丈そうな鉄の箱である。
ただ一箇所、正面の扉だけが透明なアクリル製で、その横に、鎖につながれた小さなハンマーがひとつ、ぶらさがっていた。
『IN CASE OF EMERGENCY, BREAK GLASS (緊急の際は、ガラスを割れ)』
注意書きは、日本語、英語の他に、中国語、韓国語、津軽弁でも表記されていた。
光の加減で、内部がよく見えない。
俺は、軽く腰をかがめて、中に何が入っているか、確かめてみた。
白い皿の上に、数個の錠剤が、形よく盛りつけてあった。
「では、わたくしはこれで」
あわてて振り仰いだ俺の目に写ったのは、蜘蛛の糸に掴まってするすると空に昇っていく芥川の姿だった。
芥川は、桜の木からゆっくりと降りて来た顔見知りらしき坂口安吾とたまたますれ違い、二言三言声をかけて、あっさりと行ってしまった。
盛りを過ぎた桜の花びらが、風に舞っている。
「はい。ちょっとごめんなさいよ」
そう言って、俺の身体を軽く押しのけた者がいる。
さきほどの、坂口安吾だ。
坂口は、例の赤い箱の前にしゃがみ込むと、(ハンマーではなく)ちゃんと鍵を使って蓋を開け、中の錠剤を、持参してきた使用期限の新しいものと取り替え始めた。
その業界で、持ち回りの当番制にでもなっているのだろう。
坂口は、古い方の錠剤を袋に詰めて、立ち上がった。
数日後、同じ場所を通りかかった時、石畳の上にアクリルの破片が散乱していた。
誰かが、ハンマーを使ったのだ。
箱の中の錠剤がなくなっていた。
・・・今、太宰に『合格!』と言われたら、どうやって防げばいいのだろう?
茫然と立ちすくむ俺の耳に聞こえてきたのは、裸足の足音と、故郷の村からずっと走り続けて来たような荒い息づかいだった。
俺は、追い抜かれないように全力で走った。
かろうじて、日没までに、家に帰り着くことができた。
それ以来、俺は、二度とあの場所には近づかないことにしている。<おしまい>
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火浦氏のファンでないひと(友人など)には、なんだかさっぱりわからないという苦情が多い作品。(笑)
火浦氏の作品『馬鹿SFはこうして作られる』(『SFバカ本・たわし編プラス』・廣済堂文庫)のパロディだが、
同氏『遊んでて悪いか!!』(ログアウト冒険文庫)のP228(8月16日・お、私の誕生日やん!)のネタも
知らないと、理解できないかもしれない。
とり・みき氏との会話で、玉川上水を歩いていると、太宰の幽霊が出て「失格!」というネタである。
まれに「合格!」と言われる人もいるという。
火浦氏は「『合格!』と言われるのはちょっと怖い」とコメントしている。
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